秋野不矩の公式WEBサイト

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2015年10月11日

オリッサの寺院

 インド大理石が敷き詰められた浜松市秋野不矩美術館の大展示室には、幅七メートルを越える大きな絵が常設されています。『オリッサの寺院』です。
 左側の寺院はパラスメシュワル、右側の寺院はラジャラニ、中ほどにあるのはリンガラージ・・・それとも、すべて不矩さんの心象風景だったのでしょうか・・・。この絵の前に立つたび、私はいつも、周囲の空気が変わったような少し不思議な気分に包まれます。
 絵の舞台であるブバネシュワ―ルは、インド・コルカタ(カルカッタ)からベンガル湾沿いに南へ下ったオリッサ州の州都です。紀元前から栄えた街は、今でも500とも600ともいわれる多くの寺院や遺跡が残る、宗教的聖地。そして、ここは不矩さんが、インドの中で最も慣れ親しんだ街でした。

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 「おふくろが、今度天竜にできる美術館のために絵を描くことになったので、一緒にブバネシュワ―ルへ行ってくれへんか」
 夫の癸巨矢から唐突にインド行きの話が出たのは、1996年秋のことでした。年が明け、2月3月を、不矩さんとブバネシュワ―ルで過ごしました。最初の1週間は、癸巨矢が同行、後半3週間は、不矩さんの長女、靱子さんと合流、そのうちの1週間は四男の矩之さんが参加。あいだの2週間を、不矩さんと二人で過ごしました。
 一日の流れはいたってシンプルでした。朝起きて、洗面をして着替え、定宿パンタニバス一階の食堂で朝食。午前中はたいてい、リキシャーを往復させて、市内にある寺院を一日に一カ所、観に行きました。不矩さんは、小さな緑色のディレクターズチェアにじっと座って、毎日毎日、飽きることなく寺院をただ眺めていました。いにしえの聖地には、とてつもなくゆったりとした時間が流れていました。
 お昼は、外で簡単に食べ、ホテルに帰って少しお昼寝。夕方に、ときどき商店街へでかけて買い物をする以外は、ホテルでゆっくり過ごし、一階のレストランで晩ご飯を食べ、シャワーを浴びて寝ました。レストランのボーイさんに部屋までチャイを持ってきてもらい、おしゃべりもたっぷりしました。たまに、ダウリの丘にある日本山妙法寺へでかけ、コンクリート製の日本式のお風呂に入らせていただくのが楽しみでした。

 不矩さんといえば今の私には、不矩さんの腰と、足の爪ばかりが脳裡に浮かびます。腰というのは、旅先での自分の役目を、不矩さんが転倒しないようにすることと決めていたので、移動時に不矩さんの腰から足もとばかりを見ていたからでしょう。爪は、不矩さんの爪がやたら厚くて硬くて、手入れをするのに手こずったからでしょうか。
 ある時、不矩さんが好んで画材にした場所のひとつ、ウダヤギリという小高い丘の上の古い僧院跡へでかけました。例によってぶらぶらと二人で歩いて行くと、丘の下に着いた途端、不矩さんは表情も変えず、弾かれたように岩場を凄い勢いで登りはじめました。岩場には階段も鎖も、体を支えるものは何もなく、驚いた私は、まるでタックルを狙うラグビー選手のように、必死で不矩さんの腰へ突進しましたが、追いつきません。今から思えば、腰の据わった不矩さんより私の方がずっとへなちょこの若造で、高齢者を支えるどころか、まるでこちらがすがりつきに行ったような格好でした。息を切らしながら追いついた私は、丘の上で静かにたたずむ怖れ知らずの90歳を、眼を丸くしてみつめました。

 たまたま縁あって嫁した家の姑が不矩さんで、ひょんなことから思い出深いインドの旅ができました。ほんのひと月半ですが、不矩さんや靱子さん、矩之さんと濃密な時間を過ごすことができました。ただし六人もの子どもがいて、それぞれ配偶者がいて、その配偶者も変わったりして、そこにまた子どもができ増えていくので、当時の不矩さんにとって若い私などはもう、嫁だか孫だか、なんだか分からない存在だったことでしょう。
 帰国してから、不矩さんからかかってくる電話の第一声が、祖母のそれに変わりました。
 「美樹ちゃ〜ん、バーバだにぃ〜、きーちゃんいる〜?」
クスッと笑いながら癸巨矢につなぎました。
「きーちゃん、おかあさんから電話〜」
「ほーい」

―『オリッサの寺院』を眺めると、20年前の我が家の、なにげない日常の光景までが切なく蘇ってきます。

秋野美樹

おふくろが・・・

2015年5月15日

黒へのおも

『民家(ブバネシュワールオールドタウンA)』(1993)を、不矩は「壁を真っ黒に塗っているのがおもしろくて描いた」と話しているが、黒い絵は過去に遡っても『裸童』、『女人群像』、『沼』、『帰牛』等々に見ることができる。

『土の祈り』(1983)の物陰にたたずむ人の黒など思わずハッとして引き込まれる。また『壁を塗る』(1984)でも、インドの強烈な陽光と漆黒の影のコントラストが印象的だ。

NAVAGRAHA

晩年の不矩は、ことさら黒の黒たる色を追求していた。
それは丁度、美山のアトリエで九曜星のそれぞれの下絵を並べて試作している時だった。

突然、「やっきりする!」と不矩の口から二俣弁が飛び出した。 

木炭を力いっぱい画面に擦り付けるから、折れた木炭が膝元に粉々に飛び散る。絵具も木炭も思うような黒い色が出ないと言って苛立っていた。しばらく考えて諦めたのだろうか、深いため息がもれた。果てしなく永い沈黙があっても、こんなに激しく感情をあらわにする不矩を見るのは初めてだった。

本画『ナヴァグラハ(九曜星)』(1992)では、凹凸のある繊維質で肌理の粗い若狭の竹紙に木炭で描き、さらに黒朱を塗った上に象牙黒を重ねた。黒の出色に不満を持ちながらも、日本画の材料をベースに材質を生かし、さらに工夫を重ねる。絵具を塗るときはグイグイと力任せ、だから筆先がぼそぼそに擦り切れてしまう。では竹ベラで、またはパレットナイフで絵面を削る。不矩は考えうる色材と道具のコラボレーションにとことん挑戦した。

この頃から、不矩は「抽象画を描きたい」と洩らしていたが、『雨雲』でハッキリとその抽象表現に挑んだ。黒雲が単純化されてさまざまな不定形に、空も河も大地もプラチナ箔と黒、黄色による同次元の無機的世界と化した。凡てを包括した根源的な不矩の心象風景。

五十代初めの運命的ともいうべき、心情的にも造形的にも融合するインドの原風景との出会いから、それを必然として直感で肉体化し得た不矩。その妥協なき「自身の色、形」への探求は最期まで衰えなかった。

注)黒・ブラックとは、印欧語で「燃える、輝く」という意味がある。象牙黒(ぞうげこく)は象牙を焼いて作る黒色顔料で、現在、象牙を使用することはほとんどなく、牛などの骨を焼いたボーンブラック(骨炭)、或は動物性黒と呼ぶ。

若林 靱子

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2014年12月9日

赤道直下の日々

厳しい冬寒の白馬を逃れ、マレーシア・ペナン島での長期の転地療養は今回で3度目になる。マラッカ海峡に浮かぶ小さなこの島(南北24 km東西14 km)には、マレー系、中国系、そしてインド系の人々が住んでおり、風土的にもインドと似ている。家々の庭にはシウリやプリムラ、デザート・ローズなどが咲き、色とりどりの鳥がマングローブの緑陰に飛び交う。小猿たちが樹間でぴょんぴょんジャンプをすれば、オオトカゲが川原でゆうゆうの昼寝。
ペナンヒル(標高700m)の中腹に目立って大きな樹がある。そこには白腹海鷲の巣があるとみえ、朝に夕に海峡から大きな翼で滑空して戻る姿は格別だ。
これが高層ビルの林立する都市の只中での日常の光景である。

ペナンが良いと思うのは、自然環境もさることながら1年を通して昼夜平均28℃という気候が私のリウマチに合うこと。
またホームページ作りで徹頭徹尾不矩さんと向き合ったことも刺戟となって、大いに血のめぐりを良くしたのかもしれない。これらの効果と反応はまったく予期しなかったことで驚いている。お陰で最近では車イスも杖も要らなくなった。

ビザ更新で隣国ブルネイに行った時は、正に不矩さんの貧乏旅行そのままの擬似体験をした。ペナンからミリまでプロペラ機で飛び、大型高速バスで無事に国境を越えた。そこから首都バンダル・スリ・ブガワンまでは「これホントに走れるの?」と思わず口から出たオンボロバスに乗り換え、何度もヒヤヒヤさせられたがドライバーの凄腕で完走した。各駅停車の行く先々で目にしたのは、発展途上国に見る豊かさと貧しさの極で隣り合う人々の暮らしだ。明るさも暗さもないまぜに、不矩さんのインドがそこに重なり合う。
町や村のどこへ行っても、ココナツと不矩さんの大好きなマンゴーがたわわに実っていた。

ペナンに借りた部屋は潮風が吹き抜けて心地良く、Leonard CohenのHallelujah他CDを朝から晩まで流しっぱなしにホームページの作業をした。まるで独り言のようにつぶやき歌う、コーエンの地を這う濁声に魅せられ、身も心も一体化して空になりendless・・・。
波静かな海峡を白い客船が定刻どおり通り過ぎて行くのを眺めながら、夫とホワイトコーヒーを飲み、一息ついてまた黙々と仕事にかかる。
気がつけばこれが2013年11月より2014年の5月まで延々と続いていた。
こうして不矩93年の足跡をひたすら追った私たちは、8月1日、ついに「苦しみが倍になってかえってくる歓びの日」を迎えた。

若林 靱子

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2014年8月1日

秋野不矩ホームページ

この度、秋野不矩のホームページを開設することになりました。我々家族を代表してここにご挨拶申し上げます。

秋野不矩は、1908(明治41)年、静岡県磐田郡二俣町城山(現 浜松市天竜区二俣町)に生を受け、2001(平成13)年、京都府美山町で逝去(享年93歳) しました。

初期の修業時代、画壇での活動があって、当時にあっては斬新な作風で子供の絵を描いた結果、第一回上村松園賞を受賞、その後は第25回日本芸術大賞受賞(新潮社)、文化勲章受章など世の評価を受けることが出来ました。晩年になって、浜松市(元天竜市)秋野不矩美術館が建設され、不矩の作品を常に鑑賞できる環境も得ることができました。

以上、順調な流れに受け取れますが、実際には、初期の頃は子供を六人抱えて、売り絵で糊口をしのぐ暮らしが続きました。が、幸いにも郷里の後援会などの支援もあって、不矩は本画に専心することができました。

不矩の絵画活動において幾つかの転換期があったと思いますが、大きく二つを挙げることが出来ます。その二つの時期に作風にも変化がありました。

一つは、「創造美術」の結成。1948(昭和23)年、40歳のとき、関東と関西で総勢10名強の中堅作家が立ち上がり、画壇に新風を巻き起こしました。当時、大阪毎日新聞の美術記者をしていた井上靖氏が発会式に同道されています。これを出発点に新たな制作の機運が盛り上がったものと思います。

もう一つは、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)在職中の1962(昭和37)年、54歳のときにインド・ビスバ・バーラティ大学へ赴任することになり、これがきっかけでインドの風物に魅せられることとなります。当初同大学への客員教授の勧誘があったときに、真っ先に手を上げたのが不矩でした。日本語しかしゃべれないのにどのような算段があったのでしょうか。その後、何度も渡印し、インドをテーマにして多くの絵を描き続け、2001年の10月、現役でその生涯を終えました。

 では、ごゆっくり「不矩の世界」をお楽しみください。

社)秋野不矩の会代表 秋野 矩之

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